僕学 概論1

よく目の前に現れる多くの人は、モチーフやアイドルを求めている。

【誰が何を】

<誰が>が重視される傾向。

 

隣人、友人や知人の生きる文化を知らずに、異国文化理解とは甚だしい。

僕がそういった表層的な事に漠然とした嫌悪を覚える理由。

また、これもモチーフの1つである。

 

便宜的に、それぞれ

・モチーフ的動員

・アイドル的動員

と定義する。

 

両者どちらかの作用によって多くの人は目的と手段が入れ替わるのである。彼らはそれで満足できるが、どうやら僕は残念ながら満足できない質のようだ。

 

僕は万物にフラクタル性があると仮定しているが、隣人の理解は世界の人間の理解に等しい。なぜなら理解に至るプロセス(具体的には、観察、対話、服飾含むその他表現によるアプローチ)が等しいからである。偏屈な隣人を理解できれば、アマゾン原住民をも理解できるのである。そこには再現性がある。僕はこういったものを重んじたい。

 

同じモチーフによって集った人々の(表層的な)相互理解は当然であるが、容易だ。それを堂々と素晴らしい事であるかのように大衆に受け入れられるのは僕が困る。

 

フラクタル性の仮定により僕自身が縛られているのも事実かもしれない。

本、映画、旅行、そういったもの直接目に映る部分(末端)ではなく、どうしてもそのものの本質を捉えようとしてしまうのである。

 

一旦観光する行為の本質を捉えてしまえば、仮に初めて伊勢神宮を訪れたとしても、感動は小さくなってしまう。

その時、神社という枠組みの本質を捉えていれば更に既視感に苛まれるだろう。

 

僕は人より過度に神経質な分、本質に迫る、というか、そうせざるを得ないのだろう。

 

万物には核心であるコアが存在し、それを読み解いてしまえばそこからいくら枝分かれしようが、似たようなものなのである。

 

本質に迫らず末端を追いかけられる人はとても幸せだろう。旅行であれば行く先行く先、毎回毎回、全てが新鮮なのだから。

 

あまり多くないだろう僕らのような不幸な人間は、何を体験しようが、しんしんと、すらすらと、多くの物事が想像の範囲内に収まってしまうのだ。

そこには大きな喜びは生まれない。

 

 

無知こそが本当の幸せなのだ。

知的好奇心は人をも殺す。